裁判傍聴から人生を学ぶココロノトモのブログ

傍聴した裁判から学んだ事、考えた事をまとめています

他人を恐怖で洗脳した罪をもっと重く見る必要があると思う

先日、児童の母親と母親の元同級生が被告となり、児童に対し長時間正座を強要したり暴行をしたりした強要・暴行の罪を問われる裁判を傍聴した。

 

被害者児童の母を被告A、被告Aの元同級生を被告Bとしよう。

 

被告Aは実家や姉との関係は良好で、本人の様子や公判から知りうる内容からも犯罪と縁がある要素がるように見受けられなかったが、被告Aが元同級生の被告Bと再会したことがことの始まりだった。

 

被告Aは、夫との関係悪化のため夫とは別居しておりそこに被告Bが支配を強めていく。被告Bは、被告Aの娘を脅したり、説教、夜通し正座をさせたり、学校へ行かせないことや食事を抜く虐待を主導していく。

 

被告Bは被告Aが思い通りに行動しないと、説教をしたり罰を加えたり、自殺をほのめかしたり、架空の人物を仕立て上げ、その人物も使いながら被告Aを思いのままに操縦していた。

結果的に、被告Aは娘に馬乗りになり暴力を加える虐待も行うことになる。

 

実際に、被害者は小学生にもかかわらず数か月で体重が3kg減り、長時間の正座により足にケガも負っていた。

 

この事件の根源は、被告Bが被告Aを恐怖で支配し操縦したことによるものだが、判決は被告ABともに懲役3年執行猶予5年の同じ量刑。

 

被告Bは追い詰められ、被告Aの言いなりに行動するしかなく、判決でも被告Bが主導したことは認めつつも、被告Aは実家や姉との関係も良好で逃げることはできたと評価されていた。

 

他の事件でもよく見られるが、支配・操縦状態にある人は物理的に逃げられても、戻ることも多い。

 

支配・操縦された側の人間が、物理的に逃げることができるから、逃げる選択をしなかったことが罪として重くカウントされ、罪深い支配・操縦した側の人間の罪が軽くなるのが今の司法上での現状だ。

 

ここ数年だけでも「福岡・5歳児餓死事件」「埼玉・本庄5歳児虐待死」など、他人に恐怖で支配されてしまい大切な我が子を死に至らせてしまっている事件がある。これらの事件は結果として子供を死に至らしめてしまったためか、支配・操縦した側の量刑の方が重くなった。

 

子供が死に至るほど取り返しのつかない重大な結果にならないと、支配・操縦した側の方の量刑が重くならないのが現在の司法の現状なのだと思う。しかも子供を守るために被告らの名前は非公表となり被告にとっては逮捕されたとしても痛手が少ない。

 

恐怖や支配という形のない物を司法が判断するのは確かに難しいが、本当の悪人は、自分で手を下さず他人を使って自分のゆがんだ欲望を満たす人だ。

今の現状は、人を支配・操縦して自分のゆがんだ欲望を満たす人にとって好都合だ。