裁判傍聴から人生を学ぶココロノトモのブログ

傍聴した裁判から学んだ事、考えた事をまとめています

人間は不快に支配されている

人間は結局不快に支配されていると思う。

 

不快に包まれているときは視野がかなりせまくなっていて、短絡的な目の前の不快の素を排除する行動を起こす。

 

不倫相手を刺す事件が起きてしまうのは、その不倫相手さえいなくなればという不快の排除。

 

自分の思い通りにさせてくれないという不快、目の前の女性魂が邪魔だから脅して魂を排除して犯す。

 

過去にホームレスが邪魔だからと殴って、殺してしまった事件もあった。これも犯人にとってホームレスという不快を排除した。

 

どれも極端な例だけど、何度も繰り返し起こる事件だ。

 

そんなひどいことをとするなんて鬼畜だと思うけれど、大きくくくると私たち人間は、不快に支配されていて、その不快を排除しながら生きている。

 

自分のキャパがなかったり短絡的だったり、状況が悪いと視野が考えられないほど狭くなり、単にその不快を排除することだけしか考えられなくなる。

 

多くの被告が言う。

「今となっては分かるんですけど、その時はそれしか考えられませんでした」

 

不快はやっかいだ。普通の人はこれらの犯罪行為はしないとしても、周りに当たったり、自分自身を傷つけたりと不幸につながる。

 

今の自分は何を不快と感じているのか、自分で自分をよく観察しておく必要がある。

 

そして不快の仮設が出来れば、なぜ不快なのか、不快の元となる前提は何なのか。

その不快は単なる受け売りだったり、真実と異なっていたり、不安からくる思い込みだったりするかもしれない。

 

そもそも感じる必要のない不安、不快に消耗しているかもしれない。であれば、人生もったいないことをしている。

 

不快も段階があり、わかりやすい不快から自覚のない不快まである。

すべての不快に全部向き合えないのでスルーするのも人間の能力なんだろう。

でも、スルーしすぎると不快を感知するセンサーがバカになる。

 

ある程度豊かになった今、この瞬間スルーしたら死ぬほどの不快でないけれど蓄積される不快は命取りな気がする。

 

だからこそ、今大事なことは自分の不快を意識的にキャッチすることだと思う。

 

凶悪な事件の例をきっかけにした話だけれど、実は普段の生き方に常に関係ある学び

「自分の不快に目を凝らそう」