裁判傍聴から人生を学ぶココロノトモのブログ

傍聴した裁判から学んだ事、考えた事をまとめています

死と日常生活の距離

あまりこの感覚を人に話しても共感してもらえないのだが、人々の日常の営みの中に死があるはずなのに、日本の日常生活では、死が何か別世界のもののように、人々の日常生活の中に死が入っていないと常々感じている。

 

死について語ってはいけない風潮だし、生きていれば死にたいこともあるのにそんなことを口にしたらまわりが驚いてしまう。

 

歳をとればいつかは死ぬし、若い人よりは年寄りの方が死が近いのは事実なのに、十分高齢と言える歳の芸能人が亡くなった時、「まさかこんな早くに亡くなるとは・・・」などのコメントを出す人も多く、それが本心だったとしたら、世の中の人は、死について考えるのを避けているのかもしれない。

 

裁判では、当然殺人事件もあるので、人の死のリアリティに触れることになる。首をしめられると人は足をばたつかせるとか、なぐられた後死に至る前の被害者はその後目をつぶっていびきをかいているとか・・・(いびきをかくのは、のどの筋肉が弱ってしまったためだそう)このあたりの証言は複数の事件で同じような症状がおきているので、人の死の直前はこんな感じなんだろうと多少想像ができる。

 

傍聴をしていると、人の死についてどうしても考えてしまう。被害者は自分が殺されたことも分かっていないくらい一瞬で亡くなってしまう場合もあるし、一方で自分の家に放火して自殺しようとし、痛々しい全身ケロイド状態の被告を見たこともあり、死にたくても死ぬことができない運命というものがあることを知った。

 

日本で日常生活を送っているだけだと特に、死を意識することは少ないけれど、死を意識すること自体は悪くないと思っている。死を意識するからこそ今どう生きるかを考えられる。死を意識することはよりよく生きることにもつながると思う。