【罪名】窃盗
【判決】一年(執行猶予)
本屋2店舗で14冊、9冊を万引き、計約14000円。
本は転売していた。後日本屋への支払いは行った。
街を走るアドトラック(宣伝カー)と法規制について考えてみる
https://twitter.com/takuya_hyon/status/1107859822769143808?s=19
電車内で4歳くらいの女の子が突然
— カマたく@CRAZE (@takuya_hyon) 2019年3月19日
「バーニラッバニラバーニラ求人🎶バーニラッバニラ高収入🎶」
って急に歌いはじめて
母親は慌てて子供の口を手で抑え
父親は遠くを見ている
対面に座るお兄さんはネックウォーマーで口元を隠しながらも肩が震度3くらいで震えてる
それを必死に文字にするわたし
先日、こんなツイートが流れてきて、あー子供は無邪気…なんかほっこりしてしまったのだけど、せっかくなのでアドトラック(宣伝カー、宣伝トラック)について考えてみる。
アドトラックとはトラックの荷台の部分に、派手な広告や映像を流したりしたりして、大音量を流しながら繁華街を走行して、人からの注目を集める宣伝ツールだ。
私が実際に見たことがあるのは、水商売系か他にはプロレスの宣伝だった記憶がある。
東京・大阪・名古屋の中心部ではよく見られるが、比較的新しい宣伝手法なので、その他の地域ではまだあまり見られないかもしれない。田舎でトラックを走らせても宣伝効果は薄いだろうし。
見たことがある人は分かると思うが、繁華街で信号待ちをしている時、歩いている時にアドトラックに遭遇すると嫌でも注目してしまうので、これを考えた人は純粋にすごいと思う。
宣伝されている内容は、水商売系が多く、社会的にクリーンではない業界がこのトラックを使っているようだ。クリーンとは言えない業界は新しい手法に常に敏感だ。
最初のツイートに出てくる女の子が口ずさんだ「バーニラ、バニラ、バーニラ、高収入!」というのは、バニラという風俗系の求人サイトの宣伝のテーマソングで、一度聞いたらしばらく耳に残ってしまうほど中毒性がある。目の前を派手なイラストと大音量で、「バーニラ、バニラ、バーニラ、高収入!」と連呼しながら通過するともうしばらくは脳内リフレインになってしまう。
このビジネスは隙間産業で、実際にはクリーンとは言えない業界の宣伝をすることになっているし、宣伝方法についても、景観問題、騒音問題、あと大音量を流して運転している関係で運転手の耳を守るためだろう、運転手はヘッドホンをしているそうで、その運転方法も違反にあたるとかで、アドトラックをとりまく法令が少しずつ規制されてきている。
それでも今はまだ東京都の規制だけで、車のナンバーが東京都以外だったら規制の対象外になるなど、法の抜け穴だらけで問題の根本解決にはなっていない。
人間の欲望が色々な形で生まれ、ビジネスになり、それが悪影響を及ぼすと、規制が入り、またその規制をかいくぐって少しずつ変わっていく。そんなことが世の中でたくさん起きている。
グレーな商売はいつも法律とのいたちごっこなのでそういう視点で、人々の営みを眺めてみるのは、とても興味深い。
4月は裁判官異動の時期
4月は裁判官の異動の時期。
勝手に傍聴しているだけとはいえ、いつものあの裁判官がいなくなると思うのは寂しいもの。
今回発表された異動情報で、好きな裁判官のうち
寺本真依子裁判官(東京地裁家裁立川支部へ異動)と、西山志帆裁判官(東京地裁へ異動)の異動があり、お顔が見られなくなるのが寂しい。
お二人とも、清楚で落ち着きがあり、穏やかで優しさがあり、強さもある、まさにイメージ通りの女性裁判官という感じの方だった。
でも、裁判官の異動は異動先の裁判所に傍聴に行ったら会えることもあるのがよいところ。以前、たまたま別の裁判所に傍聴に行った時、前に名古屋地裁にいた裁判官を見かけた時は驚いて声が出そうになったことがあった。
お二人とも名古屋地裁での勤務お疲れ様でした。
表現豊かで声が大きい被害者の訴えを聞いて普段感じない違和感を感じたこと
被害者参加制度という制度がある。
刑事訴訟に犯罪被害者や委託を受けた弁護士が参加する制度のことだが、参加をすると、被害者が書面や口頭で直接裁判官に訴えることができるという制度だ。
ニュースで日々様々な事件が起こっていて、それなりに被害者の立場になって考えることは誰でも自然にすることはあるはずだけれど、加工されていない直接の被害者の生の声は、やはり被害者でないと表現できないので貴重だ。
裁判員裁判員は、ほとんど初めて裁判を経験するはずなので特に、裁判員への心情に影響すると思う。
私も何度聞いても、被害者の悲痛な叫びは心が痛むし、どれだけ想像を働かせても被害者本人の苦痛の一部分しか理解できないと思っている。
ただ、そんな中、先日その被害者陳述の中で初めてなぜか違和感を感じたことがあった。
なぜ違和感を感じるのか考えてみた。
その被害者は、被害を受けた事件について訴えてはいるのだが、それが事件自体や被害者の心と体の傷についての裁判官へのアピールというよりは、舞台女優が舞台で発するような抑揚、事実というよりは小説のような情景を交えての解説だったのだ。
被害者として裁判官に訴えるというよりは、みんな私に注目して欲しいという欲望が前面にあふれているように感じた。
私のような感想を抱いたとしても誰も被害者にそんなことを言う人はいないだろうし、被害者自身も自分に注目してほしい願望が出ていることに気付いていないと思う。
ただ、まわりから同情を受けて当然の被害者という立場でも、その場にふさわしくない欲望をからめて表現すると、第三者から見て違和感が残るということに気付いた瞬間だった。
どれだけ謝罪をされても怒りが収まらない理由
裁判でよく出てくるワード「謝罪文」
被告人が被害者に送るものだが、そもそも受け取ってもらえないことも多い。
被害者と加害者が全く面識がない場合もあり、少しでもこんなひどいことをする理由や背景、謝罪を期待して、複雑な気持ちをかかえながら被害者が謝罪文を受け取ったとしても、「言い訳がましい」「罪を軽くするために書いている」「弁護士に書かされているだけと感じた」という被害者の感想ばかりだ。
謝罪文を受け取って「反省している様子が分かり少しは許す気持ちになった」という話を聞いたことがない。被害者からしたら、加害者が何をしても怒りがおさまることはないのは自然な現象だと思う。
事件発生時から、様々な取り調べを受ける時も、裁判中も、裁判が終わってからも、ずっとずっと被害者は様々な感情と共に、この怒りを持ち続けている。
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先日、論文を読み解く、NHKのろんぶ~んという番組で、「謝罪」がテーマの回があった。
まず、「怒りというのは左脳の前頭部が活性化し、左右の脳活動がアンバランスになる状態のこと」だそう。
謝罪ありとなしで怒りの体反応「脳波・心拍数・汗」、心反応「攻撃性・不快感」を反応実験したところ、「汗」「不快感」については謝罪有無関係なく反応があることからも、謝罪が怒りのすべておおさえるわけではないことが実験結果からも分かった。そもそも、謝罪されても怒りが消えるということはあり得ないのだ。
とはいえ、謝罪は、被告・被害者にとって重要なアクションであることには変わりない。
謝罪に大切なことは「責任承認・悔恨・保証解決策」
謝罪でしてはいけないこと「正当化・言い訳・問題の軽視・逆ギレ」
これらの要素を十分注意しながら、また何を言われても被害者にとっては「正当化・言い訳・問題の軽視・逆ギレ」に聞こえてしまうことを念頭において謝罪をしなければならないんだと思う。
また、人間生きていれば誰かの怒りにふれることはあるので、このメカニズムを理解しておくことはいつかは役に立つはずだ。
小学校の先生が6才女児生徒にわいせつ(量刑記録)
【罪名】強制わいせつ
【判決】懲役2年6月、4年執行猶予
小学校の先生が、6才女児生徒にわざと水をかけ、世話をすることを装い、パンツを脱がせ陰部を直接さわる。
教師を懲戒免職されており、退職金も受け取りなし、妻とは離婚せず心臓病の長女の看病が必要なことなどをあわせて執行猶予付き。
下着泥棒(量刑記録)
【罪名】窃盗
【判決】懲役1年6月(執行猶予3年)
マンション2階のベランダによじ登り、下着8枚を窃盗。
30年前に同様前科有。