裁判傍聴から人生を学ぶココロノトモのブログ

傍聴した裁判から学んだ事、考えた事をまとめています

海外の裁判所傍聴 スペイン バルセロナ

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バルセロナ裁判所前


 

裁判傍聴を行うようになってから、旅行中でも普段傍聴している名古屋の裁判所とは違う裁判所を少しでも見るという新たな旅行先でのToDoが増えた。

 

おせっかいな傍聴マニアがいたり、居眠り傍聴じいさんがいたりというのはどの裁判所でもあるあるだし、公判でくりひろげられるやりとりにきつめの方言がはいっていたりするとなんだか新鮮な気分を味わう。

 

以前から国内にとどまらず、ずっと海外の裁判傍聴をしたいと思っていて、海外旅行に行くごとに裁判傍聴の情報を求めて現地の人に聞いてもそもそも普通の人は裁判傍聴について知らない。

 

日本人に置き換えてもそれは普通。外国人が日本に来て誰かに日本の裁判傍聴したいんだけどと聞いても、その聞かれた人が裁判傍聴をどのようにすればよいのか、普通に傍聴できるのかなんて知っている確率はかなり低い。

 

インターネットで海外の裁判傍聴の情報を調べようにもなかなかたどり着くことができないので、現地で裁判所に行ってみてようやくそもそも傍聴が出来るのか聞いてみるという方法になってしまう。

 

今回ヨーロッパに旅行したのだが、スペインバルセロナで裁判所を見つけた。裁判所前まで行ってみたところ、何やら銃を持った警官が裁判所を警備しており、近くで支援者らしき団体が集まっているというなんとも貴重なタイミングに遭遇することが出来た。

 

「とにかくどんな裁判なのか知りたい!『何言ってんの?』と冷たくあしらわれるかもしれないけれど、これはこの中の誰かに聞くしかない!」と恥ずかしさより好奇心が勝ち、優しそうな男性に勇気をふりしぼってどんな裁判なのか聞いてみた。

 

英語とグーグル翻訳と雰囲気で教えてもらったことは多分こんな感じ。

スペインからカタルーニャ州を独立させようとする政治運動があり、そのカタルーニャ州首相の

Puigdemont(プッチダモン)という現在ベルギーに亡命している政治家が被告、裁判所前に集まっていた人はカタルーニャの旗を持ったり横断幕を広げたりなど裁判の行方を見守っているようだった。

 

たったこれだけを何とか教えてもらっただけなのだけれど、裁判所の前に銃を持った警官が立っていたり、裁判の行方を見守っている団体の雰囲気を感じたり、実際に話を聞いてみたりなど海外でこれが出来て本当によかった。独立運動での裁判なんて日本ではありえないので、これをきっかけに今まで考えたこともないことを考えるきっかけにもなった。

 

ということで、裁判所の中に入ることは出来なかったけれど、裁判所の外から支援者の話を聞いたり雰囲気を味わえたのは大満足。この後、ベルギーで実際に海外初傍聴を果たせたのですが、それについてはまた別記事にて。

 

宮迫さん、田村亮さんの会見、最初のウソが出た原因はオレオレ詐欺に加担する下っ端と同じ

雨上がり決死隊の宮迫さん・ロンドンブーツ田村亮さんの会見を見て、これは世間の空気が変わるきっかけになると感じた。

涙の会見の中に登場する人物は、芸人の先輩・後輩、吉本関係の人・・・。視聴者からはなじみがあり、想像がしやすい人物だ。
だからこそ、ある程度正直に言っているようにはとらえる人も多いだろうし、同情した人も多いだろう。

さらに社長からのパワハラエピソードが、視聴者の自身の体験に過去の体験と結びついたりして、視聴者の頭のなかは
何らかの感情がうずまく。怒りの矛先が吉本へ行くひとも多いだろう。

私も外見を見てパワハラのくだりは怒りの感情が湧いたし、才能がある芸人が一瞬でいなくなってしまうのは
全体から見てもすごくもったいないことだと思った。

でも、会見を見た感想だけで終わるのは思考停止になってしまうので、もう少し考えようと思う。

会見を見ていて、オレオレ詐欺で下っ端の人が捕まった時に、裁判で涙ながらに家族・友人への感謝・反省を
述べている被告人を傍聴している時の感覚と似ていることに気付いた。

それら被告人は「家族・友人など周りの人に迷惑をかけたことや、周りの人のありがたさを
感じたこと」でしか事件を見れていないなと感じることが多い。

それはオレオレ詐欺など特殊詐欺は、つかまるのは下っ端ばかりで、そもそも主犯格はつかまらないことも多く
人も死んでいないし、血も流れていないし、被害者も前面に出てこないので、犯行の一端をになっていても、
リアリティを感じにくいのだ。

むしろ、オレオレ詐欺の稼働時間は銀行が営業している月~金曜の昼間が勝負で土日祝は完全休み、
電話をかけるところから始まるので、普通の仕事をやっているような錯覚に陥ってしまう。

今回の闇営業問題も、事件と直接つながるイメージを持ちにくいからこそ、おおごとになることを
分からず、今回のきもになっている「最初についたウソ」が発生してしまったのだと思う。

自分はそうならない安全地帯から見ると感じるドキドキする感情

名古屋市のいくつかの地域で路上喫煙禁止エリアがある。日中オレンジ色の制服を来た取締り係員が巡回していて、違反すると罰金をとられる。

先日、禁止エリアでたばこを吸っている人を見付けた係員複数人が足早にかけより、「違反です!」と喫煙者を取り囲んだ。目の前に突然事件が起きたかのように見えてちょっとドキドキした。

とくにごねることもなく、その喫煙者はすぐに罰金を払っていたのでとりたててドラマもなかったのだけど、自分の中におこったドキドキはなんだったんだろう?という自分の感情のほうが気になった。

世間では何らかの事件を起こした犯人に対して、コメンテーターなりSNSなりで発言している人を見ていると、自分の快感を得るために正論を言ったり攻撃したりしているようにも見え「絶対に自分が犯人側の立場になることは今後もない、自分はそっち側の人間ではない」という前提があるのだろうなと感じていた。

でも一応私は、人間絶対ということはないので、自分が犯人になることはないとは思いつつも、犯人と私の世界が全く別れていてそうならない安全地帯から一方的に見ているわけではないスタンスのつもりだった。

喫煙で捕まった話に戻ると、私はたばこが嫌いだし、もちろん吸わないので、たばこを吸うことで違反者という扱いになることは今後もないはず。

今回ワクワクにも近いドキドキを感じてしてしまったのは、自分がその立場にならないことが明確な状況で、誰かが悪いことをして捕まるのを安全地帯から見ていただけだから、こんな感情がわいてきたのかもしれないと思った。

人間、自分が安全地帯にいて安全を保証されていればワクワクドキドキの感情を求めてしまうものなのかもしれない。

私達があまり知らないこと

裁判は社会の縮図・・・と言えると思う。

 

当たり前だけれど、自分が知っていることというのは、本当に一部のことだけで、見ている世界は偏りがある。

 

だから、裁判で自分が思いを馳せたことがなかったこと、全く知らない世界があることを知ることがある。

 

同性愛についてもそうだ。もちろん、同性愛者がいるのは知っているけれど、どんな世界なのかまではよく知らない。

 

この間、傍聴で偶然、「ハッテン場」という場所があることを知った。

「一部の男性同性愛者が不特定多数の性交相手を求めて集まり、性行為を行う場所」ということらしい。

 

何となく海外ではこういう場所があるというのは頭の片隅にあったけれど、名古屋で全国的にも最大級のハッテン場があると知って驚いたし、もっと詳しく知りたいし、知らない世界を知りたい。名古屋のハッテン場、何度も通ったことのある場所だったのにただ見過ごしていた。日常に知らないことがたくさん埋もれていることをあらためて気づいた。

 

自分が知っている世界はごく一部だし、偏りがあることを自覚して、いろんな世界があることに気付き、興味をひろげていきたい。

 

自らに厳しい制限を科した盗撮犯(量刑記録)

【罪名】愛知県迷惑防止条例違反

【求刑】6ケ月

駅・コンビニで盗撮。

同種犯罪で罰金前科有。

示談金10万支払い、クリニックにも通い欲求を抑える漢方薬を飲んでいる。また、5年間自らの生活圏内でもある地下鉄沿線駅、商業施設に立ち入らない制約をしている(これは珍しい、かなり厳しい制限を自ら行っている)

 

 

死と日常生活の距離

あまりこの感覚を人に話しても共感してもらえないのだが、人々の日常の営みの中に死があるはずなのに、日本の日常生活では、死が何か別世界のもののように、人々の日常生活の中に死が入っていないと常々感じている。

 

死について語ってはいけない風潮だし、生きていれば死にたいこともあるのにそんなことを口にしたらまわりが驚いてしまう。

 

歳をとればいつかは死ぬし、若い人よりは年寄りの方が死が近いのは事実なのに、十分高齢と言える歳の芸能人が亡くなった時、「まさかこんな早くに亡くなるとは・・・」などのコメントを出す人も多く、それが本心だったとしたら、世の中の人は、死について考えるのを避けているのかもしれない。

 

裁判では、当然殺人事件もあるので、人の死のリアリティに触れることになる。首をしめられると人は足をばたつかせるとか、なぐられた後死に至る前の被害者はその後目をつぶっていびきをかいているとか・・・(いびきをかくのは、のどの筋肉が弱ってしまったためだそう)このあたりの証言は複数の事件で同じような症状がおきているので、人の死の直前はこんな感じなんだろうと多少想像ができる。

 

傍聴をしていると、人の死についてどうしても考えてしまう。被害者は自分が殺されたことも分かっていないくらい一瞬で亡くなってしまう場合もあるし、一方で自分の家に放火して自殺しようとし、痛々しい全身ケロイド状態の被告を見たこともあり、死にたくても死ぬことができない運命というものがあることを知った。

 

日本で日常生活を送っているだけだと特に、死を意識することは少ないけれど、死を意識すること自体は悪くないと思っている。死を意識するからこそ今どう生きるかを考えられる。死を意識することはよりよく生きることにもつながると思う。