裁判傍聴から人生を学ぶココロノトモのブログ

傍聴した裁判から学んだ事、考えた事をまとめています

裁判で垣間見れる夫婦の実態

離婚の裁判では、目の前でこんなにお互いを陥れ、嘘にまみれた争いが繰り広げられているのだが、まだ別居していない夫婦であれば、同じ家から出てきて法廷でバトルしてまた同じ家に帰る。なかなかの地獄だ。

 

一度は永遠の愛を誓った二人だが、少しでも自分が有利にジャッジされるようお互いがお互いを責め、尋問では嘘をつきまくる。

 

離婚裁判は刑事事件のように圧倒的分かりやすい悪事と証拠があるわけではない為、細かな事柄を一つ一つ証拠やエピソードとして裁判官にアピールするのだ。

 

例えば、夫側が、妻がいかに「悪い母親」という事をアピールする場合、朝子供に食べさせるメニューが(食事の準備がいらない)くだものばかりだとか・・・、妻が子供をしかる時長時間叱責しすぎるとか・・・。

 

そして妻側は反論として、朝食は果物以外にも食べさせているとか、叱責するといっても何分くらいだとか、こういったバトルの一つ一つが細かすぎるのだ。そして浮気の追及では、最初認めずLINEの証拠が後から出てきても開き直りと逆切れと攻撃。

 

お互いがお互いを攻め合う法廷では、人間が本来持っているけれど隠している部分が露呈する。

 

人間は元々自分勝手で自分の都合の良いように行動するもので、その部分を隠して何とか社会生活を送っているのだと改めて思い起こされる。家の中までそんなにうまく隠せるわけでもなく、実質うまくいっている夫婦のほうが少ないんじゃないかとも思う。こればかりは統計の取りようがないので証明は出来ないが。 

子供を持った責任は死ぬまで続くがその責任で問題が解決される訳ではない

被告の情状証人で親が出廷することはよくある。

被告が中年以上だと、当然親は高齢だ。

 

子供を持つ責任は重いが、子供が成人した後も自分が死ぬまでは責任がつきまとうのだと改めて感じる。

 

涙ながらに

「なぜこんなことになってしまったのだろう・・・」

「私の育て方が悪かったのか・・・」

と訴える母親を見ることもあるが、一方、他人事のように話す親も多い。

 

まだ情状証人として出廷してくれるだけ親としての任務を果たそうとしているのであって、再犯を繰り返している被告は特に家族も見放しているようで出廷も傍聴もしない親も多い。

 

情状証人で出廷しているにもかかわらず、事件のことについて被告と話あったこともないし、これからどう被告をサポートしていくかも具体的な案がないといった具合だ。

 

普段からお互いのことを詳しく話している親子の方が少ないと思うし、普段の生活で何か困ったことが起きた場合、親に相談するかというと親以外の人間関係で解決する人の方が多いかと思う。親も「自分は親なのだから何とか責任を果たさないと」と思うけれど、実態は親子で分かりあって心が通じて元々ある問題が解決していくわけではない、そしてまた再犯となる、そんなループが見える。

 

親の側も親なりに責任を果たそうとしているが 、被告もその時は親に悪いと思いながらも日常生活に戻っても結果再犯に走るのを何度も見た。

 

まわりに迷惑をかけて申し訳ないという被告の気持ちや、親の何とか子供を更生させなければという気持ちだけでは本来の問題が解決するわけではないのだ。

 

裁判を通して家族とは何かを考える

「家族」という言葉から連想されるものは、絆とかひとりぼっちじゃないとか、助け合い、とか・・・
なんとなく温かみのある言葉だ。

もし自分が自分の家族からその温かみを感じていなくても、人に堂々と言ったりすることは何となくはばかられる風潮がある。
だからこそ、自分にも家族の存在を温かみのある存在として暗示をかけている。
無意識でも自分に対しても家族に対しても対外的にも「家族のイメージ」を演出している。


情状証人の家族、例えば母親がテンプレートのような質疑応答がある。

検察官:「息子さんが逮捕されたと聞いてどう思いましたか?」
母親:「頭の中が真っ白になり、信じられませんでした」

検察官:「息子さんがこんなことをしているとは知っていましたか?」
母親:「全く知りませんでした」


特に性犯罪の場合、母親が息子の性癖は知らないだろう。
被告も家族には性癖を隠している。

平穏な家庭を運営するために、家族の不穏な行動に気付く事が
あってもまさかと思う。

刷り込まれている家族を演じる為に、家族を構成する人それぞれが
見たくないものを見ないことで、家族同士は本当は何も知らないという実態がそこらじゅうにある。

家族を神聖化しすぎた結果のひずみが裁判で見えてくる場合がある。

法廷内での被告の監視体制について

大阪で勾留中の容疑者が逃走し、まだ捕まっていないことで近辺の住民は安心して過ごせない日々が続いているだろう。

 

ここで、勾留されている被告が、法廷内でどのように管理されているか疑問に思う方の為に、書いておく。

 

まず、開廷の5分前くらいに手錠と腰縄を付けられた状態で、刑務官2人に付き添われて入廷。

 

入廷する扉に鍵をかける為、「ハイ、止まれ」と刑務官に言われ被告は刑務官が法廷扉の鍵をかけている間直立静止したまま。

 

刑務官が鍵をかけ終わると「ハイ、進んで」と刑務官に促され、被告席前で再度「ハイ、止まれ」。

 

今度は腰縄をはずし、手錠からつながった縄を刑務官が手に持ち、被告席で開廷を待つ。

 

裁判員裁判の時は、裁判員に悪い印象を与えない為、開廷前に裁判長から書記官に内線電話がかかり開錠指示があったタイミングで手錠がはずされる。裁判員裁判でなければ、裁判官が入廷した後、開錠。

 

休廷中、被告も一旦退廷するので休廷に入り次第手錠と腰縄がつけられ、入廷と逆の工程があり、開廷の5分前にまた戻る、の繰り返し。

 

刑務官は基本は一人の被告に2人付き、被告はほぼ男性なので刑務官も男性だが、被告が女性の場合は、2人のうち一人が女性の刑務官となる。被告の体格が良い場合は、100キロ越え級の刑務官をあえてつけているように思う。その他、被告が暴れる可能性がある場合は刑務官が3人4人態勢で付く場合もある。

 

なお、勾留されていない被告は、もちろん刑務官はついていないので、さっきトイレで隣にいた人が被告だったという場合もある。

 

今のところ、遭遇したことがあるのは、被告が裁判長に暴言を吐いたり、証言台を軽く蹴ったりした程度だが、狭い法廷は特に傍聴席と被告席は近いので何か騒動があった場合は、絶対に安全とは言えない。

 

ニセバイアグラ6万錠を輸入しようとした韓国人(量刑記録)

被告は観光ビザで日本に滞在していた韓国人で現在はオーバーステイ
見た目はどちらかというと誠実そうに見える。

韓国にいる交際相手の姉に、バイアグラの輸入話を持ち掛けられ
中国から日本に輸入しようとしたところで関税で見つかり逮捕に至る。

姉からは6万錠を送料込みで110万円で購入。
被告席の前のテーブル2つにわたってずらりとならべられた
バイアグラ6万錠は圧巻!

また、バイアグラの名前は有名だが、レビトラ、シリアスという
製薬会社が別のED治療薬があることを初めて知った。
男性には常識なのかもしれないが、知らなかったのでまたひとつ勉強になった。


【罪名】
医薬品医療機器等の品質、有効性及び安全性の確保等に関する法律違反
商標法違反
関税法違反

【求刑】
懲役4年、罰金300万円、偽バイアグラは破棄

弱い立場の他人を自分の欲望のはけ口にしてもよいと思うのが人間なのか

今日、テレビで中学生が授業中、講義をしている教師を何度も足蹴りし、その後何事もなくまた、講義を続ける様子の動画を見た。

この学生は、後日逮捕されたとの説明だったが、教師は生徒に蹴られたことについて特に注意をするわけでもなく、ヘラヘラして何事もなかったように授業を進めていた光景は衝撃的だった。 

 

生徒が教師に暴力をふるうことの要因として、先生の立場が今とても弱くなっていて、「生徒が教師に何をしてもしかえしされないだろう」という心理が働いているのは間違いない。

 

この事件は、暴力をふるう者とふるわれる者の二者間で起こった出来事が原因ではないと思う。暴力をふるう者側の満たされない思い、不満、絶望、イライラなどそもそもなぜその感情がくすぶっているのか自分でもよく分かっていない負の感情を発散するために 、弱い立場の他人を利用しているのだ。

 

刑事事件で言うと、事件の形としては、児童虐待、傷害、強姦、強制わいせつなどとして事件化されると思う。一般市民からしたら、こんな事件には自分は関係ないと思うかもしれないけれど、 一般社会でも同じ図式は日常的にある。

 

クレーマーも言い返せないと分かっていて店員を自分の「くすぶっている感情を発散させるはけ口」として利用しているし、もっと日常的な出来事で言えば、どこの職場でもいる不機嫌オーラをまき散らしている人も同じだ。

 

自分の欲望のはけ口に他人を利用する人は、その相手を選んでいる

 

自分より立場の強い人や、仕返しされるなどリスクが高い人はその相手として選ばない。そのずるい人達には「この人には何をしても大丈夫」と思われないことが大切だ。

 

そして、人間多かれ少なかれ、自分の欲望をはけ口に他人を利用している部分はあるので、自分がそのような思考をしている時がないか、自分についてもよく見ておく必要がある。

お金の使い方は人生そのもの

判決言い渡しの後、判決の理由の説明があり、最後に裁判長からひとことメッセージが添えられる。

 

そのメッセージは、テンプレートのようになにも心に響かない(多分、被告にも響かない)場合も多いが、裁判長によってこの一言に特色があり、このメッセージで裁判長の人柄を少し見ることが出来たり、気付きがあったりする。

 

今回、窃盗を何度も繰り返している被告への判決言い渡し後、裁判長が言ったメッセージはこんな内容だった。

 

「前回出所後、生活保護費内で何とか生活費を工面できるよう、パチンコをなるべく行かないようにしたり、ビールの本数を減らしたり、自分なりに工夫しているところは評価できます。あなたはそういったことが出来る人なので、今回の出所後も、なるべく生活保護費の範囲内で生活するよう工夫してみてください。」

 

被告になってしまう人は、世間一般の比率からしてお金に困っている人が多い。生活保護費内で生活をするのは当たり前に思えるが、それが出来ていない被告人が多いということだろう。

毎日毎日被告人と向き合っている裁判長からしたら、生活費の工夫をしようとしている時点で他の被告に比べて更生の望みがあるということのようだ。

 

 日々をただ生きているだけだと、ほぼ無意識に「ビール飲みたい、パチンコしたい」という目先の欲望を満たす行動をしてしまうのだろう。収入の範囲内なら目先の欲望を満たすのみの行動でも本人の自由といえば自由だ。

 

ただ、目先の欲望を満たすのみの行動ばかりをしていても、人生全体を考えると多分むなしくなる。

 

「自分は何に幸せを感じ、何を優先する人生を送りたいかをじっくりと自分自身に問いかけ、その優先順位を意識しながらお金を使う」

 

これは別に被告に限った話ではなく、誰もがよい人生を送るために心がけるべきポイントだと今回の裁判長のひとことメッセージからの自分なりの考えた傍聴での学びだった。